教育とITの交差点

学ぶことが大好きな団塊ジュニアのブログ

田舎のヤンキー vs 港区女子

SNSを中心に、承認欲求の弊害が指摘されている。確かにSNSがなかった頃には承認欲求なんて言葉は聞かなかったから、SNSならではなんだろう。しかしそもそも承認欲求ってなんだ?と調べたら、どうやら他人にすごい!と言われたい欲求のようだ。それ自体は誰にでもある感情だろうけど、何が問題なのか、しばし考えてみた。

例えば高級ブランドのバッグ。価格ほどの価値があるかどうかは置いといて、それ自体は昔からあるし、それを持っていることで他人から羨まれるのも昔から変わらない。しかしSNSの登場により、称賛の声を爆発的に増やすことが可能になった。

それのどこが問題なのか?おそらく承認欲求を満たすことに疲れてしまうのだろう。なぜそうなるかというと、承認というのは他人の評価なので、他人の行動にずっと振り回されてしまうから。言うなれば自己満足と対極にある世界だ。全てが自己満足で終わるのもどうかと思うが、承認欲求に振り回されるのも疲れる。何事もほどほどがよいということだろうか。

そこで思い出すのは、私が生まれ育った田舎町のヤンキーたちである。彼らはリアルの友人が多く、その結びつきを大切にする。彼らが高級ブランドのバッグを買ったら、直接友人たちに見せて称賛を浴びるだろう。それは「いいね」の数では味わえないリアルな感覚だ。しかも友人が多いから称賛も大量に浴びる。それで十分満足するので、SNSでの称賛は不要だ。実に健康的と言える。

そう考えると、いわゆる港区女子などSNSでの「映え」を求める人たちは、リアルの友人が少ないのかもしれない。もし友人100人と毎週遊んでいたら、SNSなんてやってる暇ないと思いませんか?やるとしても遊ぶ約束をするためのツールになるだけで、承認欲求とは無縁。これまた実に健康的。

私は公立中学へ行ったのでヤンキーは普通にいたが、彼らとの交流は少なかったし、どちらかといえば勉強をしない彼らをバカにしてすらいた。でもいまでは、多くの友人たちに囲まれて暮らす彼らを一つの成功例だと思っている。学校教育からこぼれ落ちた彼らから学ぶことはとても多い。港区女子インフルエンサーがどうやっても勝てないのは、田舎のヤンキーではないだろうか。デジタルにどっぷり浸かった生活をしている私にも、何か無視できない警鐘を鳴らしているような気がしてならない。